「私がやらなきゃ」という見えない重荷
私たちはよく、「私がやらなきゃ」「私がなんとかしなきゃ」と、見えない重荷を背負ってギリギリのところで踏ん張ってしまいます。
責任感が強い人ほど、周りの期待に応えようと必死になり、ひとりで抱え込んでしまう。
弱音を吐くことは無責任であり、逃げだと思い込んでいるからです。
実はそれ、少し前の私自身でもありました。
万能感という名の傲慢さ
以前の私は、「私ならできる」「私がなんとかしてあげる」と、自分の力を信じて疑いませんでした。
困っている人を見れば、自分が救わなければと真っ先に飛び込んでいく。
でもその根底には、「私が世界を回している」という小さな傲慢さと、「役に立たなければ私には価値がない」という不安が隠れていました。
自分の力で、誰かを救えると思い込んでいたのです。
限界が教えてくれたこと
しかし、胃がんによる全摘手術や死の淵、大切な存在が苦しむ姿を前にして、私のその万能感は完全に打ち砕かれました。
どんなに愛があっても、絶対に届かない「底」がある。
「あ、私じゃダメなんだ。私の力ではどうにもならないんだ。」
自分の無力さを骨の髄まで思い知らされる、残酷な「限界」でした。
でも不思議なことに、その絶望の底で、「私がやらなきゃ」という呪縛からスッと解放されるのを感じたのです。
福音書の言葉:弱さの中に宿る力
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」
(第2コリント 12:9)
これは、癒やしを求めて祈った使徒パウロに対し、神様が返した言葉です。
私たちが「自分の力でできる」という傲慢さを手放し、「もう無理です」と限界(弱さ)を認めて空っぽになったとき。
そのひび割れた隙間にこそ、初めて神様の力が静かに流れ込んでくるのです。
「私が救う」から「一緒に救われる」へ
マザー・テレサは、自分のことをこう表現しました。
「私は、神の手にある一本の小さな鉛筆です。神が、書いたり描いたりしておられるのです。」
私が相手を救うのではありません。私にはそんな力はないからです。
ボロボロの私とあなたが並んで座り、共に痛んでくださる神様(インマヌエル)によって、「一緒に救われていく」。
これが、胃を失って限界を知った私が見つけた、本当の強さです。
今日の小さな実践
今日、「私がなんとかしなきゃ」とひとりで重荷を背負って立っているあなたへ。
限界を認めることは、負けではありません。
「もう無理です」「助けてください」と、その弱さをそのまま声に出してみてください。
握りしめていた重荷を手放したその「空っぽの手」にこそ、神様の平安は届けられます。
どうか、ひとりで背負いすぎないでくださいね。