幸せの方程式 PARADIGM:私が「勇者」ではなく「僧侶」と名乗る理由

戦い続けることに疲れた夜

頑張っているのに、なんだか苦しい。
「前向きになれ」「乗り越えろ」と言われても、もう立ち上がる気力すら残っていない。

私たちは日々、社会というフィールドで「前線で戦うこと」を求められます。
弱音を吐かず、敵(問題)を倒し、結果を出す「勇者」であることを強いられているかのようです。
でも、どうしても剣を握れない、戦えない夜が人間には必ずあります。

握りしめていた「憎しみの鎖」

少し、私の話をさせてください。私は胃がんで胃を全摘しており、体力の限界と常に隣り合わせで生きています。
しかし、人生の土台がひっくり返るような絶望は、病気だけではありませんでした。

かつて私は、とある事情から両親を深く憎んでいました。一家は離散し、絶縁状態のまま、両親は二人で命を絶ちました。
突然の出来事に、行き場のない怒りと悲しみが溢れ、「どうしてこんなことになる前に気づいてくれなかったのか」と、亡き両親を責め続けていました。
私は彼らにこそ、変わって(悔い改めて)ほしかったのです。

メタノイア:向きを変えるのは私だった

しかし、どれだけ憎しみを握りしめても、過去や亡くなった人を変えることはできません。
ドロドロの感情の中で立ち止まったとき、本当に向きを変える(悔い改める)必要があったのは、彼らではなく「私」の方だったと気づかされました。

私がこの憎しみの鎖を断ち切り、愛の方向へ生き直すしかない。
不完全な自分や癒えない傷を抱えたまま、それでも心の向きを変えること。それが私にとっての、本当の意味での「メタノイア(視点の転換)」でした。

偉人の言葉:傷ついた癒やし手

カトリックの司祭であり心理学者でもあったアンリ・ヌーウェンは、「傷ついた癒やし手(Wounded Healer)」という概念を提唱し、こう語りました。

「自分自身の傷を通してのみ、私たちは他者の傷を真に理解し、癒やすことができる。」

私たちは、完璧だから誰かを救えるのではありません。
深い絶望や癒えない傷(痛み)を知っているからこそ、同じように暗闇にいる誰かの痛みに、そっと寄り添うことができるのです。

勇者ではなく、回復魔法をかける「僧侶」

だから私は、「はらぺこ僧侶」と名乗っています。仏教のお坊さんでも、立派な指導者でもありません。
RPGゲームで言えば、前線で剣を振るって敵を倒す「勇者」ではなく、後ろにそっと立ち、傷ついた仲間に回復魔法をかける「僧侶(ヒーラー)」でありたいのです。

私の土台にあるのは、私を憎しみから救い出してくれたイエス・キリストの愛です。
治らない病があっても、過去の痛みがあっても、「今のままでも、良いんだよ」という愛と赦しの言葉を、日常に持ち帰れる形(歌や文章)に翻訳して届けること。それが私の祈りです。

今日の小さな実践

「わたしはあなたがたに平和を残します。わたしの平和を与えます。」(ヨハネ 14:27)

今日、頑張りすぎて心がすり減ってしまったあなたへ。
その疲れや痛みを、無理に隠さなくて大丈夫です。今日だけは剣を置き、戦うことをやめてみてください。

人間関係に疲れた時、自分を責めすぎてしまう時、過去の痛みがフラッシュバックした時。
どうかここで、少しだけ呼吸をし直してください。
今日一日戦ったあなたの心が静かに休まり、明日また少しだけ、身軽に歩き出せますように。