愛を遠ざける「鎧」の正体
「弱さ」について長年研究しているアメリカの心理学者、ブレネー・ブラウンはこう語っています。
「私たちは傷つくのを恐れて『鎧』を着込みます。しかしその鎧は、私たちを痛みから守る代わりに、人との深いつながりや愛、喜びからも遠ざけてしまうのです。」
傷つかないように、舐められないように、愛されない不安を隠するために。私たちは自分を守るための「鎧」を必死に着込みます。
しかし、鎧を着て「完璧な自分」を演じている限り、私たちは誰からも「本当の私」として愛される経験を持つことができないのです。
「大丈夫なフリ」という重たい鎧
私たちは大人になるにつれて、いくつもの「鎧」を着込むようになります。
職場で舐められないための「実績」という鎧。良い親だと思われるための「理想の家庭」という鎧。そして何より、「私は大丈夫です」という強がりの鎧。
でも、その鎧が重すぎて、夜になると息が苦しくなる。
「本当の、ダメな私を知られたら、誰も私を愛してくれないのではないか」という孤独が、鎧の下にはいつも隠れています。
人類が最初に作った「鎧」
聖書の創世記に、人類が最初に「武装」した日のことが描かれています。
アダムとエバが神に背いて罪を犯した時、彼らが最初に感じたのは「自分が裸であること(無防備な素の自分であること)」への強烈な恐れと恥じらいでした。
彼らは慌ててイチジクの葉を綴り合わせ、腰を覆って「神から隠れ」ました。
人間は、自分の不完全さや弱さを隠すために、偽りの葉っぱ(鎧)で自分を覆い、神様の愛から逃げ隠れするようになってしまったのです。
福音書の言葉:鎧の重さで「いのち」が潰れる
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」
(マタイ 16:26)
地位、名誉、フォロワー数、人からの称賛。
どんなに強くて立派な鎧(全世界)を手に入れたとしても、それを維持しようと必死になるあまり、その重さで中身の「自分自身の魂(いのち)」がペシャンコに潰れてしまっては、何の意味もありません。
自分を守るために着たはずの鎧が、自分と他者との関係を遮断し、自分自身を窒息させてしまうのです。
十字架という「究極の武装解除」
では、どうすればこの重い鎧を安全に脱ぐことができるのでしょうか。
神様は、上空から「早くその鎧を脱ぎなさい」と命令したわけではありません。
イエス・キリストは、神であるというすべての栄光(究極の鎧)を自ら脱ぎ捨て、最も弱い人間の姿となってこの世界に来られました。
そして十字架の上で、文字通り衣服を剥ぎ取られ、誰よりも無防備な姿で、人々の嘲りと暴力をその身に受けました。
神ご自身が、あなたのために「完全に武装を解除して、弱く傷つく姿」を見せてくださった。
だからこそ私たちは、「ああ、この神様の前でなら、もう強がらなくていい。鎧を脱いでも安全なんだ」と、本当の自分を差し出すことができるのです。
弱さをさらけ出すことは、恥ではなく、本当の平安を受け取るための「勇気」なのです。
今日の小さな実践と祈り
今日、誰かの前で「大丈夫なフリ」をして疲れ果ててしまったら。
部屋に一人でいる時だけでも、神様の前でその重たい兜をそっと外してみてください。
「神様、本当は全然大丈夫じゃありません。疲れました。これが私です。」
かっこ悪いその言葉こそが、仮面を外した本物の祈りです。
あなたが鎧を脱いだその無防備な場所に、十字架を通して示された「決して変わらない愛」が、静かに、そして力強く注がれますように。