病気は「学び」なんて綺麗なものじゃない
大きな病気をして「人生の本質を学びました」「成長できました」と語る人がいます。
確かにそういう側面はあるかもしれません。でも、現在進行形で苦しんでいるとき、病気は決してそんな「綺麗で便利な教材」ではありません。
それは純粋な暴力であり、人生から大切なものを理不尽に奪っていく「泥棒」です。
私たちは、その喪失に対する「怒り」や「なぜ?」という問いを、綺麗な言葉でごまかしてはいけないのだと思います。
胃を全摘するということのリアル
私自身、胃がんを患い「胃を全摘する」という経験をしました。
それは「ちょっと不便になる」というレベルの話ではありません。空腹を満たす喜び、誰かと食卓を囲む当たり前の幸せ。そういう人間の根源的な喜びを、一生涯「強制的に引き算された」ということです。
「なぜ私がこんな目に遭うのか」。その理不尽さへの怒りや、失ったものへの深い悲しみが、今でも完全に消えたわけではありません。
傷の上に「これは成長のためだ」という綺麗な絵を貼って、無理に納得できるほど、命は安っぽくないからです。
神ですら「なぜ」と叫んだ
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
(マタイ 27:46)
キリスト教が綺麗事ではないのは、神の子であるイエス自身が、十字架の上ですべてを奪われ、極限の苦痛の中で「なぜですか」と叫んだからです。
聖書の神は、雲の上から「苦しみを乗り越えて成長しなさい」と説教する安全な傍観者ではありません。
自らも肉体を持ち、理不尽にすべてを奪われ、絶望を叫んだ「傷だらけの神」なのです。
福音書の言葉:共に「切られる」神
「実を結ぶ枝は、もっと多く実を結ぶように、刈り込み(剪定)をなさいます。」
(ヨハネ 15:2)
イエスはこの「剪定」の言葉を、自分が十字架で処刑される(切られる)前夜に語りました。
つまり神は、遠くから無慈悲にハサミを入れる庭師ではなく、「あなたと一緒に切られ、一緒に痛む」と宣言したのです。
胃を失い、究極の引き算をされた私の中に残ったもの。
それは綺麗に解決した答えではなく、この理不尽な痛みと怒りのただ中に、共に血を流して座り込んでくれる存在への、祈りにもならない呻きの中で掴んだ「血の通った本質(ESSENCE)」でした。
偉人の言葉
ナチスに抵抗し、強制収容所で処刑された神学者ディートリヒ・ボンヘッファーは、獄中からの手紙にこう書き残しました。
神はこの世界では無力であり、弱い。
しかし、ただそのようにしてのみ、神は私たちと共にいて、助けてくださるのだ。
万能の力で奇跡を起こして痛みを取り去るのではなく、神自身が傷つき、弱くなることでのみ、私たちの絶対的な孤独に寄り添うことができる。
それが、引き算の果てに見える究極の愛の姿です。
今日の小さな実践
今日、もしあなたが理不尽な痛みや喪失の中にいるなら。
「意味を見出さなきゃ」「前を向かなきゃ」という綺麗な努力を、一度やめてみてください。
「痛い」「苦しい」「なぜですか」と、そのままの怒りや嘆きを吐き出してください。
聖書には「嘆きの詩篇」という、神への抗議の言葉が数多く収められています。
綺麗な祈りはいりません。あなたのその生々しい嘆きこそが、傷ついた神と深く繋がる、最も純粋な祈りなのです。