「条件」が揃うのを待ち続けていないか
「もっと時間があればできるのに。」
「周りが理解してくれれば変われるのに。」
私たちは、何かができない理由を、しばしば「環境」や「他者」のせいにします。
条件が整うのを待つのは、一見すると慎重な姿勢に思えます。
しかし、外側の奇跡を待っている限り、人生の主導権は自分にはありません。
「待つこと」が、現状維持のための言い訳になっていないでしょうか。
福音書の言葉:38年待っていた人への問い
「イエスは彼に言われた。『よくなりたいか。』
病人は答えた。『主よ。水がかき回されたとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。』」
(ヨハネ 5:6-7)
ベテスダの池には、「水が動いたときに最初に入った者は癒やされる」という言い伝えがありました。
この病人は、38年間も「水が動くこと」と「入れてくれる人」を待ち続けていました。
イエスは「よくなりたいか」と、彼の“意志”を問いました。
しかし彼は、「環境のせい」と「他人のせい」を理由にして言い訳から入ります。
これに対し、イエスは池に入れることはせず、ただ「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じました。
科学的に見ると、人は「無力さ」を学習する
心理学には「学習性無力感(Learned Helplessness)」という概念があります。
長い間、自分の力でどうにもならない困難な状況に置かれると、人は「どうせ何をやっても無駄だ」と思い込み、状況を変えるチャンスが来ても行動を起こさなくなる現象です。
38年という年月は、彼の心に強烈な無力感を学習させていました。
最大の障害は、病気そのものよりも「自分には無理だ」という思い込み(見えない床)だったのです。
イエスの愛:同情ではなく、尊厳を信じる
イエスは彼を哀れに思いましたが、同情して池まで抱えていってあげることはしませんでした。
なぜなら、それは彼の「依存」を強めるだけだからです。
イエスは、彼の中にまだ「自分の足で立つ力」が残っていることを誰よりも信じていました。
愛とは、相手を甘やかすことではなく、相手の尊厳(立ち上がる力)を信じて言葉をかけることです。
奇跡は、彼が「待つ」のをやめて、イエスの言葉を信じて筋肉を動かそうとした(ACTIONした)瞬間に起きました。
偉人の言葉
心理学者カール・ユングはこう言いました。
私は私に起こったことの結果ではない。私は私がなることを選んだものだ。
過去のトラウマや今の環境が、あなたを決定づけるのではありません。
これからどうするかを「選ぶ」意志だけが、未来を創ります。
今日の小さな実践
今日、「〇〇が整えばできるのに」という言い訳が浮かんだら、イエスと同じ問いを自分に投げかけてみてください。
「私は本当のところ、癒やされる(新しく歩き出す)ことを望んでいるだろうか。」
私たちは時に、立ち上がって歩き出す責任を負うよりも、「環境の犠牲者」として床の上に横たわっている方が楽だと感じてしまいます。
しかしイエスは、完璧な環境ではなく、今日あなたに「起きて歩きなさい」と語りかけています。
奇跡の池を待つのはやめましょう。御言葉に応答して、今日踏み出せる小さな一歩は何でしょうか。